1 エジプトの歴史
 古代エジプト人には「歴史」という概念があり、書記としても王に仕えた神官が、エジプトの歴史を記しました。そして歴史について書かれたものは、 神殿の中にある「生命の家」と呼ばれた場所に保管されました。今ではそれらの巻物自体はなくなってしまいましたが、神殿の壁画などからその存在が推測されています。 その壁画のひとつがアビュドスにある第19王朝のセティ1世神殿にある王銘表です。  
 この壁画では、セティ1世と息子のラムセス2世が、過去の多くの王の名を一つずつ記した表の前に立っています。

アビュドスの王名表の図
 これらの古代エジプト人による記録をもとに、 古代エジプトの歴史は、いくつもの「王朝」に区分されました。王朝とは、「一連の支配者が、何らかの理由でそれぞれ繋がっている、まとまった時代」のことです。 そしてそれぞれの王朝をいくつかひっくるめて「○○王国時代」に分類されます。これは、ひとつの王朝から次の王朝へと、 比較的緩やかに支配権が移って行ったまとまりでもあります。このような「○○王国時代」という分類は、古代エジプトの神官マネトー(マネトン)によって行われました。 マネトーは、ギリシャ語でエジプト史を書くために「生命の家」にある資料を使って歴史を研究していました。 それは当時、エジプト王として君臨していたマケドニア人のプトレマイオス2世(彼の遺物は古代エジプト美術館にいくつかある)のためでした。 それぞれの「王国時代」の間には「中間期」があります。中間期には突出した力を持った一族がおらず、たくさんの一族がそれぞれ覇権を手にしようと争っていた時期でした。

プトレマイオス2世像(当館所蔵)

 マネトーによるエジプト史は残されていませんが、後の歴史家たちによって何度も触れられているので、かつては存在していたと考えられます。
  この情報を参考にすることによって、エジプト学者たちは、古代エジプト史を組み立てることができるのです。 ただ注意すべきことは、古代エジプト人は厳密には○○年、○○年と年代を数えなかったことです。年数は、新しい王が即位した日に「第1年」が始まり、2年、3年と続きます。 そして、また別の人物が王として即位した日に第1年から数え始めます。したがって、ある王が別の王よりも古い時代の人物か新しい時代の人物かはわかりますが、 具体的に西暦何年の人物なのかということは、正確にはわかりません。しかし、第26王朝の紀元前664年以降は、 隣接するギリシャやローマの文書に記された古文書と比較することによって、その時々の出来事の正確な年代がわかっています。
  これらを踏まえて、研究者たちは、歴史を以下のように組み立てました。
先王朝時代
紀元前4000〜3200年頃
 この時代は、有力な一族同士が覇権を争っていた時代でした。また農耕や牧畜、鉱物の採掘、外国との貿易もはじめられました。
第0王朝
紀元前3200年頃
 この時代は、まだ統一王朝は誕生していません。しかし先王朝時代とは違い、階級の出現と上位階級による管理のための道具、つまり文字の出現があげられます。
初期王朝時代 第1〜2王朝
紀元前2900〜2700年頃
 エジプトは、ナルメル(またはメネス)王によって統一され、メンフィスをエジプト史上初の首都としました。

ナルメル王のパレットの表と裏の図
古王国時代 第3〜6王朝
紀元前2700〜2100年頃
 この時代は、「ピラミッド時代」として知られています。
 第3王朝時代に、ジョセル王のもとで建築家として働いていたイムホテプが、サッカラにある階段ピラミッドを設計しました。これは史上初の石造建造物といわれています。



ギザまたはサッカラにあるピラミッドの図

 第4王朝時代に、ギザに3つの大きなピラミッドが、それぞれクフ、カフラー、メンカウラーの墓として建てられました。そしてスフィンクスも護衛として近くに建造されました。
  第5・6王朝には、エジプトの宗教ではファラオが、ヘリオポリスに太陽神殿を建設し、形が太陽光線を模倣したといわれるオベリスクを作り始めたことで、 太陽信仰が始まったと考えられます。この時代は国際貿易も盛んになった時代ですが、同時に王家の資産が食いつぶされた関係で、 ピラミッド建設があまりなされなくなった時代でもあります。
第1中間期 第7王朝〜第11王朝
紀元前2100〜2000頃
 この時代は、エリート層がそれぞれ互いにエジプトの覇権を争っていた時代です。中央に力を持った支配層がいたわけではなく、 それぞれの地域でその地方の支配者がいたにすぎませんでした。
中王国時代 第11王朝〜第12王朝
紀元前2000〜1700年頃
 ネブヘペトラー・メンチュヘテプが、第11王朝から12王朝へ移行させたことにより秩序が回復されました。 中王国時代は、黄金時代として知られています。その時代の有名な文学作品として、「シヌーヘの物語」、「雄弁な農夫の物語」、 「難破した水夫の物語」があります。これらは、後々の学校の生徒たちにとっての教科書となり、読み継がれ、書き写されてきました。 彫られたヒエログリフの書体は、極めて質が良く、今もエジプト学の大学院生にとっては教科書として使われています。しかし、この黄金時代にも負の側面はあります。 力を持った地方豪族は、常にファラオ(=エジプト全土の支配者)になろうとしていたので、暗殺が絶えませんでした。 中王国時代のエリート層の彫像の顔は、ある程度年をとった人の顔をしており、時には「写実主義」とも呼ばれています。 この様式は、ファラオの肖像の表現としてすぐに採用されました。

中王国時代の美術表現・中王国時代の女性像(当館所蔵)
第2中間期 第12王朝〜第17王朝
紀元前1700年〜1550年頃
 国際的な紛争が引き金となって、エジプトは2度目の中間期に入りました。中央権力の喪失により、軍隊が機能しなくなったことで、 ヒクソスと呼ばれるシリア・パレスチナ地方の外国人がエジプトに流入し、しまいには東デルタ地帯を支配するようになりました。 それとほぼ同時期、南からのヌビア人が、アスワン一帯の支配権を握りました。エジプト人はいったん撤退しましたが、テーベ出身のエリート一族が力を合わせて立ち上がりました。 この一族が解放戦争を仕掛け、ヒクソスとヌビアを国外へ追いやりました。
新王国時代 第18王朝
紀元前1500年〜1300年頃
 テーベのファラオは軍事遠征に成功し、南のヌビア地方、東のシリア・パレスチナまで領土を拡大しました。これらの領土から毎年手に入る富をもとに、 ファラオ達は巨大な神殿や王宮を建設し、貿易も盛んに行われました。この時代は、争い好きのトトメス3世と、その近親者でもあるハトシェプスト女王の時代でした。

トトメス3世

 アメンヘテプ2世は、スポーツが得意な王として知られており、銅の塊を矢で貫通させたことがあるといわれています。 アメンヘテプ3世は、エジプトの偉大な太陽王として、妻のティイとともにエジプトを治めました。彼は妻のために特別に湖を造りました。  エジプトの平穏は、アメンヘテプ3世の息子であり後継者でもあるアクエンアテンと、謎が多い妻であるネフェルティティによって破られました。 この2人は先代の太陽信仰をさらに押し進め、太陽円盤であるアテン信仰を広めました。 また2人は、テーベからアマルナへ遷都し、それまでは無名であった者たちを官僚に抜擢することで彼らの忠誠を勝ち得ていきました。




アクエンアテン(当館所蔵) ネフェルティティ

 アマルナ時代の最後を説明するのは難しいところです。ただ、アクエンアテンとネフェルティティは離別し、彼らの宗教改革は失敗しました。 彼らの息子であり、元々「トゥト・アンク・アテン」と呼ばれた若い人物は、後に有名なトゥト・アンク・アメン(ツタンカーメン)と呼ばれるようになりました。 彼の名前の変化によって、再びテーベに都が戻り、以前の宗教に戻ったことがわかります。カーナヴォン卿に支援された考古学者、ハワード・カーターが、 ツタンカーメンの墓を見つけたのは1922年の11月のことでした。
 このような出来事がエジプトで起こっていたとき、現在のトルコに住んでいたインド・ヨーロッパ語族のヒッタイト人は、エジプトに目を向け、 シリア・パレスチナ方面でエジプトと争うようになりました。争いを避けたかったファラオの未亡人(それが誰だかはまだわからないが)は、 ヒッタイトとコンタクトをとり、ヒッタイトの王子を自分の夫として迎え入れ、両国のそれぞれの王朝の関係を築こうとしました。 しばらく考えたのち、ヒッタイトはその提案を受け入れました。しかし、ヒッタイトの王子はエジプトに行く途中で暗殺されました。 そしてエジプトの玉座は、今やホルエムヘブのものとなりました。彼は、ツタンカーメンの時代には将軍として王に仕えていた人物で、 暗殺事件についてヒッタイトと話し合いを持たなければなりませんでした。後にホルエムヘブは、ラムセス1世を自分の後継者として指名しました。
新王国時代 ラメセス朝時代
紀元前1300年〜1080年頃
 ラメセス朝と呼ばれるこの時代には、テーベから東デルタへの遷都がありました。ラメセス1世の後継者であるセティ1世は、 古代近東地域へ何度か軍事遠征をしていたが、現在エジプトで最も美しいといわれるアビュドスの神殿を建設するほど力のある人物でした。

ラメセス1世とセティ1世の王銘表(アビュドス)
 彼の息子で後継者のラメセス2世もヒッタイトと何度か戦争をしました。 その最後、シリアのカデシュで行われた戦いは、エジプト・ヒッタイトがともに自分たちの勝利を主張しています。 両国は、「もし一方が第3国から攻撃されたとき、もう一方はその国を助けなければならない」という世界史上初の平和条約を結びました。 この歴史的な碑文のレプリカは現在、ニューヨークの国連本部に展示されています。








ラメセス2世

  ラメセス2世は、エジプトで最も治世の長かった王の1人であり、エジプト全土の神殿の新設や改修をしました。最も有名なのは、おそらくアブ・シンベル神殿でしょう。 彼はまた、聖書の「出エジプト記」の時代のファラオではないかとも考えられています。 ラメセス2世には多くの妻がいたが、現在王妃の谷においてエジプトで最も美しいといわれる墓に埋葬された、ネフェルタリを特に寵愛していました。
 不可侵条約の締結は、間違いなく混乱の時代の始まりを意味し、それは海の民という、財産・家族とともに移住してきた大量の人々の侵入という形で具現化されました。
  第20王朝において、海の民は他の文明をことごとく滅ぼしており、エジプトのみが彼らに抵抗することが出来ました。 両者の戦いはテーベ西岸のラメセス3世の神殿であるメディネト・ハブのレリーフに描かれています。
 しかしながら、結果的にエジプトは弱体化していきました。
第 3中間期 第21〜25王朝時代
紀元前 1080〜655年頃
 第 3中間期は、おそらくエジプト史の中で最も複雑な時期だと考えられます。数え切れないほどの王朝と、時として同じ名前を持つその時代の王たちが、 エジプト全土の支配権を求めて争い、他方ではアスワン以南のヌビア人が団結し、エジプトの状況をうかがっていました。 ヌビア人の王の一人であるピアンキの指導のもと、彼らはアメン神を信仰するためにテーベに巡礼をするという名目で、北上してエジプトに侵入しました。 ピアンキは抵抗にあい、テーベ到着後は自分の親戚の一人をテーベにおけるアメン神の妻として養子にすることで平和的な権力の移行を行いました。 ピアンキは、首都をメンフィスに置き、ほぼエジプト全土を支配下に置きましたが、デルタ地方にいた王子たちを屈服させることはできませんでした。  同時期に、近東地方の状況は変化し、アッシリアが圧倒的な力を持ちました。エジプトの力が弱まり、デルタの王子たちが中央に対して反抗的であることを鑑み、 アッシリアはエジプト侵攻を計画しました。ヌビア人の王であるタハルカは、激しく抵抗しましたが、最後はアッシリアの力の前に屈服しました。

タハルカ(当館所蔵)
  タハルカは撤退を余儀なくされ、エジプトはアッシリアの手に落ちました。アッシリア人は、デルタのサイス出身のエリート一族にエジプトを管理させました。 本国アッシリアで起こった一連の事件でアッシリア帝国は崩壊し、サイスの王子たちがエジプトの支配権を握ることに成功しました。




末期王朝時代 第 26王朝〜30王朝
第 26王朝、サイス朝時代
紀元前 664年〜525年
 サイスの王子の末裔であるプサメティコス 1世は、この王朝の最初のファラオになり、従来「サイス・ルネサンス」と呼ばれる運動を始めました。 外国との交流、特にギリシャの都市国家との交流がさかんになりました。貿易と繁栄は極まり、ヒエラティックをさらに簡略したデモティックという新しい書体が導入されました。 そして彫像や壁画をデザインする際に用いる基準となるマス目にも新しいものが導入されました。これらの変化は、ギリシャ発の世界秩序の変化に対するエジプトの答えでした。 世界的な出来事が、外国とエジプトで関係し合ってくるので(クロスチェックできるようになり、)エジプトの編年が絶対編年となるのはこのころからです。

第一次ペルシャ支配時代
第 27王朝時代
紀元前 525年〜404年
 エジプトは、当時の中近東で圧倒的な勢力を誇っていたペルシャ人によって征服されました。多くのエジプト人は、 自分の社会的地位を失わないためにペルシャ人の主たちに協力的でした。紅海とナイル川を結ぶ運河が開通し、エジプトの富がペルシャ流出するようになりました。 エジプトの職人たちは、ペルシャ風の豪華な飾り物を作るようになりました。しかしながら、ペルシャ人たちによる統治は厳しかったことで知られています。

第 28王朝時代
紀元前 404年〜399年
第 29王朝時代
紀元前 399年〜380年
 ギリシャ人の手助けもあり、この 2つの時代でエジプトは一時的に主権を回復しました。

第 30王朝時代
紀元前 380年〜342年
 この王朝は、最後のエジプト人の王朝として知られています。これ以降、 20世紀のナセル大統領が登場するまで、エジプトは外国人に支配されることになります。 この時代のファラオは精力的に活動しており、現存する素晴らしい建物をいくつか建設しています。カルナック神殿の第1塔門はその代表的なもので、 さらにデルタに現存する唯一の花崗岩製神殿も挙げられます。

第 2ペルシャ支配時代
第 31王朝時代
紀元前 342年〜332年
 再びペルシャ人がエジプトを攻略しました。第 30王朝の最後のファラオを追放しましたが、ペルシャ人たちの支配に対する抵抗も激しいものでした。 彼らの支配は、マケドニア発の事件によってすぐに終わりを告げました。

クレオパトラ7世

マケドニア時代/プトレマイオス朝時代
紀元前 332年〜30年
 ペルシャによるエジプト征服、ひいては中近東全体の制服は、アレクサンダー大王によって幕を閉じられました。彼はマケドニアの出身であるが、 最期はエジプトで死んだと考えられます。彼はエジプト人・ペルシャ人双方に対して、自分への忠誠、 そしてギリシャ人による管理と引き換えにそれまでの地位にとどまることを許しました。また、アレクサンダーは、シーワ・オアシスにあるアメン神の至聖所を訪れ、 現在アレキサンドリアと呼ばれる都市を発展させたりしました。
 彼についた将軍の一人であるプトレマイオスが、アレクサンダーの死後エジプトを統治し、アレクサンダー大王の遺体をエジプトに埋葬したといわれています。 紀元前 305年、プトレマイオスは、唐突に自分をファラオであると宣言し、プトレマイオス王朝を開始しました。 この王朝では、代々マケドニア系ギリシャ人のファラオによってエジプトが統治され、紀元前30年、クレオパトラ7世が自殺するまで続きました。
 プトレマイオス朝時代にアレキサンドリアは繁栄を極め、世界に冠たる都市となりました。世界の 7不思議の一つである有名なファロスの灯台があり、 当時最高の知能を集めた図書館・博物館も建造されました。ここの研究者は数学、医学、天文学、地理学などの分野で目を見張る成果を出しました。
  この王朝は、クレオパトラ 7 世と夫のアントニウスがローマのオクタヴィアヌス(のちの初代ローマ皇帝アウグストゥス)に、 西ギリシャにおけるアクティウムの海戦で敗れたことによって没落しました。


2  偉大なるファラオたち

サソリ王(第0王朝、紀元前3200年頃)(当館所蔵)
 古代エジプトにおける政治状況は、紀元前3200年頃に変わり、より力のある権力者たちがエジプトの統一と第1王朝の成立にむけて台頭しました。 第1王朝成立以前のこの時代は、第0王朝と呼ばれます。サソリ王と呼ばれた人物は少なくとも2人いたと考えられますが、なかでもスコーピオン1世はより知られている人物です。 彼は中王国時代にアビドスのナンバーU-j墓に埋葬されました。その墓も王宮のような造りをしている興味深いものです。 埋葬品のなかにはパレスティナから輸入した700もの壺、数千ものワインやビールの壺、そして豪華な家具の断片や装飾された象牙細工などが含まれていました。

ナルメル(第1王朝、紀元前3200年後)
 カイロのエジプト博物館にある有名なナルメルの名が刻まれたパレットで有名なファラオです。 パレットの両面に、彼がデルタ地方を征服し、歴史上初めて上下エジプトの統一を成した場面が描かれています。 何人かの学者たちは、ナルメルは統一王朝のエジプトにおいて最初にメンフィスを首都として成立させたとされるメネス王と同一人物であると主張しています。

クフ/ケオプス(第4王朝、紀元前2550年頃)
 ファラオの名前を現代語に翻訳する正式な方法はありませんが、ファラオの名前は古代エジプト語、もしくは古代ギリシア語へ書き直すことで翻訳することは可能です。 このファラオの場合、クフという名は彼の古代エジプト語における正式な呼び名を簡略化したものである一方で、ケオプスという名はギリシア語における名前として知られています。
 クフはセネフェル王の息子にして後継者であり、およそ 23 年間統治していたと考えられます。 クフは、ギザにおける全高約 148 メートルの古代エジプト最大のピラミッドの所有者として最も良く知られているでしょう。 このピラミッドの建築者はヘミウヌと呼ばれる人物で、彼はギザの郊外にあるマスタバ墓に埋葬され、ドイツのヒルデスハイム博物館に彼の像が保管されています。 当時墓の警備は厳重にされたにもかかわらず、クフの母であるヘテプヘレスの墓は盗掘者によって荒らされてしまい、 その結果クフは彼の母を新しい墓に再埋葬しなければなりませんでした。そのときの埋葬品は現在カイロ博物館で見ることが出来ます。 クフはまぎれもなく強大な権力者であり、後の時代には彼の家族または囚人たちを苦しめた暴君として記されました。

トトメス3世(第18王朝、紀元前1480年頃)
 複雑な後継者問題により、彼の継母もしくは叔母であったハトシェプストと同時期にファラオとなりました。 ハトシェプストは、自分が正当なファラオであると主張して戴冠した、古代エジプトにおける数少ない女性のファラオであり、 海外交易によりエジプトの情勢を強めることに勤めました。その一方で、彼女はトトメス3世に軍隊の指揮を任せたようです。ハトシェプストが死んだ後、 トトメス3世は自身のファラオとしての権力を確立し、ヌビアやシリア、パレスティナ地方への軍事遠征を行いました。 このことから、彼はしばしば「エジプトのナポレオン」と呼ばれます。加えて、彼はエジプト国内における大規模な建築プロジェクトを行いました。 その中でも、カルナック大神殿の東門近くのアク・メヌは最も保存の良いもののうちの一つです。

アクエンアテン(第18王朝、紀元前1325年頃)(当館所蔵)
  このファラオの業績は非常に重要でしたが、彼についてはかつて誤った見解がなされていました。彼の細長い顔立ちや女性のようにふくれた下半身の不自然な描写は、 写実的な描写ではなく、美術的な表現であったと解釈されています。 彼は、動物や人の姿で表されたエジプトの神々とは異なる、抽象的な太陽の円盤で表されたアトン神への信仰を奨励しました。 この神への信仰は、アクエンアテンの父であったアメンホテプ 3 世の治世には既に存在していたことが知られており、アクエンアテンの治世早期に、 彼の妻ネフェルティティが、カルナックにおいてアトン信仰を盛り上げました。アクエンアテンやネフェルティティの宗教はもはや単なる唯一神信仰ではありませんでした。 彼は首都をテーベからテル ・エル・アマルナに遷都し、外国との戦争を行いました。 そのため、アクエンアテンは平和主義者ではなかったと考えられます。例えば近年再発見されたパピルスには、 アクエンアテンとネフェルティティのエジプト軍として雇われたミケーネ・ギリシアの傭兵たちが、敵の頭を棍棒で殴っている様子が描写されています。 彼の治世の美術(アマルナ美術)は、写実的だといわれていますが、ラメセス朝の間も写実主義的美術様式でした。

  アクエンアテンとネフェルティティの死については謎に包まれています。彼らは疎遠になり、ネフェルティティはアマルナから離れた場所に移り住みました。 彼女はテーベに移り、伝統的な宗教に改宗したという意見もあります。 アマルナにおける王家の墓からは、アクエンアテンとネフェルティティのシャブティやアクエンアテンの石棺の一部などが発見されましたが、ネフェルティティのミイラは 残っていませんでした。しかし、 2010年の2月17日に、エジプト政府は王家の谷55王墓で見つかったミイラはアクエンアテンであるかもしれないと発表しました。 後の王朝時代に、アクエンアテンの記録は、王銘表から意図的に削除されました。例えば有名なアビドスのセティ1世の王銘表には、 アクエンアテンと彼に関わりの深いアマルナ時代の王たちの名前は含まれていません。

少年王ツタンカーメン(第 18王朝、紀元前1325年頃)
 2010年2月17日に、エジプト政府は王家の谷55王墓で発見されたミイラは、アクエンアテンであると発表しました。 そして今、犯罪病理学から、ツタンカーメンはアクエンアテンの息子であるとされます。アクエンアテンの妻は、彼自身の両親であるアメンホテプ3世とティヤの娘であり、 事実上アクエンアテンの兄妹でした。ツタンカーメンは近年の調査により、マラリアと骨の病気が原因で19歳のとき死亡したことがわかりました。また彼は内反足を患っており、 歩くときは杖を必要としていました。
 これらの科学的見解は、医学とエジプト学双方の分野において重要な役割を担っています。結果的に少年王ツタンカーメンに対する過去の見解は見直されることでしょう。
 1922年にハワード・カーターがカーナボン卿の支援を得てツタンカーメンの墓を発見し、当時の埋葬品や美術品が見つかったことで、 古代エジプトに対する一般的な印象を確立し、ヨーロッパ、アメリカ、日本のエジプトマニアたちの間で次第に広がっていきました。

ラメセス2世(第 19王朝、紀元前1250年頃)

 ラメセス 2世は、彼がまだ乳児のころから父であるセティ1世との共同統治をしていたといわれます。彼は70年ほどエジプトのファラオとして君臨しており、 それは他のどのファラオよりも長く、当時それほど長生きしたエジプト人たちはほとんどいませんでした。12人の息子が彼よりも先立って死に、 13番目の息子であったメルエンプタハのみが後継者として残りました。
 治世が長期間だったため、彼は他のファラオよりも多くの建築物を建設し、それら全てに自身の名前を残しました。彼の最も良く知られている建築物の一つが、 エジプトの南の辺境アブ・シンベルに建てられた二つの神殿です。南側の大きな神殿はアスワン・ハイ・ダム建設の際に水没を免れるためにユネスコによって移転されました。 北側の小さい神殿は、彼の妻ノフェルタリのために建てられたものです。彼には数多くの妃がいましたが、ノフェルタリはその中でも一番愛された者だといわれています。
 彼の治世は諸外国との戦争に重点が置かれていました。 特に中央アナトリア、現在のトルコの首都アンカラ近郊に住んでいたインド・ヨーロッパ語族の国であるヒッタイトとの戦争が有名です。 彼らの戦争はカデシュの戦いで佳境を迎えました。ラメセス 2世軍はもう少しで負けるところでしたが、彼は勝利を祝う碑文を立て、自身の勝利を主張しましたが、 ヒッタイトもまた同じく勝利を主張し、結局のところ歴史家たちは引き分けに終わったと結論付けました。 ラメセス2世によってエジプトとヒッタイトの間には世界初の両国間における不侵略協定が結ばれました。ヒッタイト側に残されたこの協定文のコピーが、 ニューヨークの国連本部のロビーに置かれています。
  何人かの学者たちは、ラメセス 2世は「出エジプト」におけるファラオだと主張しています。 また彼はイギリスの有名な詩人、パーシー・ビュッシ・シェリー(1792?1822)の作品である「オジマンディアス」の中で「全能の神よ、我が業績を見よ。そして絶望せよ。」 と唱えています。

タハルカ(第25王朝、紀元前675年頃)(当館所蔵)
 第25王朝はクシュ王朝として知られています。クシュ人は古代エジプトにおけるヌビア人の呼称です。紀元前750?720年の間にピアンキというヌビアの黒人王が、 テーベのアムン神殿巡礼を理由にエジプトに侵入しました。ピアンキは、ヌビア人の王女が「アムン神の神聖な母」という称号を授かった式典において、 正式に権力をエジプト人からヌビア人に移すことを認めさせました。そのピアンキの後継者がタハルカでした。
 タハルカがエジプトを支配していた間、デルタではいくつかの対抗勢力たちによる反乱が起こりました。同時に当時最も強大な国であったアッシリアが、 シリア、パレスティナ、そしてエジプトの支配を目論んでいました。このことは、タハルカにとって巨大な脅威でした。彼の軍事抵抗も空しく、 エジプトはアッシリアの侵略を受け、ヌビア人は南に追いやられました。アッシリアは、デルタの都市の一つであるサイスにエジプト人貴族の家族を住まわせ、 ヌビア人の土地を行政的に管理する手伝いをさせ、彼らは、第26王朝の礎を築きました。  タハルカは第25王朝におけるクシュ人王の中で最も良く知られている一人です。彼はヌビア人によって作られた、数多くの素晴らしい彫像に表現されています。

プトレマイオス 1世ソーテール  (プトレマイオス朝、紀元前305〜282年)
 古代エジプトの時代編年は、同時代における他の文化の歴史的出来事と相互に比較することで、より確かなものになりました。
 プトレマイオスはマケドニアのギリシア人貴族の出身で10歳若いアレクサンダー大王の良き友人でした。 しかし、アレクサンダーの父フィリップが年上の友人が息子に良くない影響を与えることを危惧し、プトレマイオスを王国から追放しました。 フィリップの死後、アレクサンダーはプトレマイオスを呼び戻し、彼に将軍の地位を与えました。 紀元前323年にアレクサンダーがユーフラテス沿岸の都市バビロンにおいて死亡すると、彼の肉体はエジプトの手法でミイラにされました。 その肉体は、アレクサンダーが征服した土地全てが見渡せる場所に造られた巨大な霊厨に安置されたといわれています。しかしプトレマイオスは、 エジプトこそが彼の帝国の一部と主張し、彼の遺体をメンフィスに造った墓に埋葬し直しました。その他の将軍たちは、このプトレマイオスの行いを無駄であるとし、 彼を領土から追放するための軍事行動を起こしました。これに対しプトレマイオスは、紀元前305年に自らエジプトのファラオであると宣言し、プトレマイオス朝を開きました。 そして紀元前30年にクレオパトラ7世が死ぬまでのおよそ3世紀にわたってプトレマイオス朝は続きました。
 プトレマイオス1世ソーテールは、ファラオとなった後もアレクサンダーがエジプトに建設を始めた都市アレキサンドリアの完成に尽力しました。 しかしながら、彼は巨大な図書館をはじめとするいくつもの施設の基礎工事しか成し遂げられませんでした。 彼は、息子のプトレマイオス2世フィラデルファスとの共同統治を行いましたが、それはプトレマイオス1世がアレクサンダーの軍隊における将軍でしかなかったからでした。 アレクサンダーの後継者争いにより、何人もの後継者たちは若くして死亡しましたが、プトレマイオス1世のみ長生きしました。

プトレマイオス2世フィラデルファス(紀元前246〜282年)(当館所蔵)
 プトレマイオス2世フィラデルファスは、首都をメンフィスからアレキサンドリアに遷都し、アレクサンダーの遺体を新しい都の墓に移しました。 プトレマイオス2世は、父の政策を継続し、アレキサンドリアの大図書館やムセイオンと呼ばれる数多くの科学者たちや学者たちが研究を行う学術機関を建設しました。 古代世界の七不思議のうちの一つであるファロス島の灯台は、プトレマイオス2世の指示により建設されました。
 彼の兄妹であったアルシノエ2世は、夫の死後アレキサンドリアを訪れ、プトレマイオス2世の妻であったアルシノエが謀反を企てていることを進言しました。 これを聞いたプトレマイオス2世は、アルシノエを追放し、アルシノエ2世を新たな妃としました。これにより、プトレマイオス2世はアルシノエ2世とともに、 アルシノエ2世の前夫から継承した土地も合わせ、広大な領土を納めることになりました。彼らはインドのアショーカ王に使いを送り、ローマとも政治的友好関係を結びました。 アルシノエ2世の偉大な功績から、彼女は死後短期的にプトレマイオス2世によって神格化され、特別な二角のヤギの勲章をアルシノエ2世の象徴として授けられました。

クレオパトラ7世(プトレマイオス朝、紀元前69〜30年)
 クレオパトラ7世の家柄に関しては、エジプト人家系だという説とギリシア人家系であるという説に分かれて熱く議論されています。 彼女は、彼女の母と年上の姉、そして彼女の父であったプトレマイオス12世アウレテスとの権力争いの渦中にいました。 プトレマイオス12世は、一度妻と娘によって追放されましたが、ローマ軍の経済的支援を受けることで再び権力を握り、ローマに帰還したと考えられています。 クレオパトラ7世は、一般的に妖艶で非常に美しく、かつ聡明で優れた政治家であったというイメージをもたれているかもしれませんが、 それらのほとんどは映画や劇における演出によるものであり、実際にはそれほど美しい人物ではなかったと考えられています。
 紀元前51年に、プトレマイオス12世が、クレオパトラの弟であるプトレマイオス13世との共同統治を始めると、彼女はまもなく国の唯一の支配者として振る舞うようになりました。 しかし彼女の弟を政治的人質として扱う宮廷の重鎮たちによって、彼女は追放されてしまいました。 彼女は、すぐにユリウス・カエサルと協力関係を結び、重鎮たちを打ち倒すことでクレオパトラのエジプト支配を確立しました。 彼女の復職直後から彼女がローマ訪問のためにエジプトを離れている間にもいても、誰一人彼女のエジプトに手を出す者はいませんでした。 紀元前44年にカエサルが暗殺され、クレオパトラは強力な後ろ盾を失いましたが、彼女とカエサルの子であるカエサリオンとともに権力を補強しました。
 やがてクレオパトラは、アントニウスと関係を持つようになりました。彼女たちの性的かつ政治的エネルギーは次第に増長し、 後にローマの初代皇帝アウグストスとなるオクタヴィアヌスの治めるローマをも手中に収めようと画策するようになりました。 そして紀元前31年、ギリシアのアクティウムにおいてローマとエジプトは衝突しました。力はローマの方が上であり、クレオパトラは自分の夢が潰えたことを悟り、 アントニウスと同じく自らの命を絶ちました。紀元前30年における彼女の死をもって、数千年にもおよぶ古代エジプトの偉大な歴史は終わりを告げました。

3 宗教
 古代エジプトにおける宗教観念は、この項目だけではそのすべてを語ることが出来ない非常に複雑なものでした。 古代ギリシアやローマにおける宗教とは異なり、古代エジプトにおける宗教は、絶対的な神の王や女王などはいませんでした。 主な古代エジプトの都市は、それぞれ自分たちの都市における3柱神(神、女神、そして彼らの子)を信仰していました。 例えば、メンフィスにおいては、プタハ神とセクメト女神、そして彼らの聖なる息子ネフェルトゥムが信仰されていた一方で、 テーベにおいては、アムン神とムウト女神、そしてコンス神の3柱神が崇拝されました。このような3柱神の組み合わせとして最も良く知られているのは、 オシリス神とイシス女神、そしてホルス神でしょう。オシリス信仰は、元々は中部エジプトにおけるアビドスが中心でしたが、エジプト全土へと広まり、 とても人気となりました。

カルナックにおけるプタハ神殿に祀られたセクメト女神像
 そのような古代エジプトの神々は、彼らのために造られた神殿に住み、俗世間から隔絶されていたと考えられます。 それは、神々の住む神殿の構造が、入り口から一番奥の聖堂にかけて部屋の数が減少していく構造をしていることから推察できます。 そして、天井は奥まるごとに低くなり、床は逆に高く造られました。このような構造は、意図的に画策されたものでした。 理論的に、神の祀られている最奥の聖堂に入ることが出来たのは、全ての神々の神官長である王だけでした。 しかし彼は、毎回重要な礼拝の日にエジプト全域の神殿全てに参拝することは不可能であったため、王に代わって神官たちが、 日常的に神々に献身を行っていました。このような神官たちには階級があり、位の低い神官たちは、聖堂に入室することは許されておらず、 高位の神官のみが王の代理として聖堂に入室できました。
 夜になると神殿の扉は閉ざされ、静寂を保ちました。次の日、夜明け前より神官たちは集まり、朝のお勤めを行いました。 神官長は、奥の聖堂へ赴き、神像が祀られている部屋の扉を開けることで、日の出の太陽光を神殿の中に取り込みました。 これにより、神像に太陽光が射し、神は命を得ると信じられていました。その後神官たちは、神像の前に供物を備え、服を着せ替えたり、 神像に聖なる油を塗ったりして儀式を行いました。
 神殿の壁画には、このような儀式の様子が描かれていますが、儀式を執り行っている者は神官ではなく、王として描かれています。 古代エジプトにおける魔術的観念を通し、このような儀式における王の描写は、実際に王自身が儀式を行っていることを強調するためでした。 理論的に、実際に王の代理として神官が執り行った儀式を、王が執り行ったとすることで、儀式の意味をより強調する目的があったと考えられます。

コム・オンボ神殿における神に供物を捧げる王の壁画

   王や高位の神官たちを除いて、古代エジプト人たちは聖堂内に入り、神を拝むことを許可されていませんでした。
 3柱神に関わる重要な儀式は、毎年行われた、神と女神の儀式的な契約とその結果生まれた神聖な神の子の誕生祭でした。 例えば、テーベにおいて、アムン神は、神官たちの担ぐ聖なる船に乗り、妻である女神との結託、そして息子の誕生のために行進をしました。 この日、人々はアムン神の乗る神聖な船の行進を一目見るために、仕事を休みました。この時、人々は神の神託を受ける機会が与えられたのかもしれません。 神に対する質問の返答は、基本的に「はい」か「いいえ」でり、神官たちが担ぐ船の左右、もしくは後進する動きによって直接示されたと考えられます。

復元された祭りの行進の際に使われた聖なる船(エドフ出土)
このような儀式は、外敵に対する古代エジプトにおける宇宙的意志を示すために行われました。古代エジプトの王は、エジプトの敵と戦って打ち倒し、 神々と神殿を傷つけないように守ることを責務としていました。





異民族を打ち倒す王の描写(エドフの神殿における塔門)

 その結果、神殿における壁画や装飾に、王と神々の関係が描写され、お互いの相互依存関係が示されました。 つまり、神々の利益は王の利益であり、その逆も然りだったのです。例えば、ある壁画に、「王よ、汝に広大な領地と敵を支配する力を授けよう。」と 神が述べた際に、王が、「それならば、私はあなたに神の農場と無限に香を供えましょう。」と答えた様子が記されています。 またある壁画には、王が神の神殿にマアト女神の彫像を奉納する様子が描かれています。マアトという言葉は、よく「真実」として訳されますが、 この場合において王がマアトを神に捧げているのは、つまり王に対する宇宙的意志であるこの世の調和を行う責務を果たしていることを神に示すためであると 考えられます。


4 魔術と呪術
 古代エジプトの魔術や呪術を理解するうえで最も簡単な方法の一つは、知恵と文字を司るトキの神トトが生み出したとされるヒエログリフの役割を 理解する事です。なぜならヒエログリフは、古代エジプト人の身近にあるものを抽象化し文字にしたものであり、それゆえに文字を書く事で、 そのものに文字に含まれる力が宿ると信じていたからです。

ヒエログリフで書かれた葬祭文書


  その結果、古代エジプト社会における上流階級の人々の墓の壁画には、死後の世界での復活のために必要な事柄のすべてが描写されています。 例えば食物や衣服などが挙げられます。食物や衣服の描写は文字の魔力により実物となり、死者はそれらを食べ、身につけると考えられていました。
 また古代エジプト人たちは、ヒエログリフを声に出して読む事で、物に文字の魔力が宿ると信じていました。わかりやすい例で言うと、 「我が名を唱えよ。されば我は生きるであろう。」という表現が、ほぼ全ての古代エジプト人の願望を示しています。死者の名前を唱えることは、 その者に命を与える事であると信じられていました。この延長として葬祭文が生み出され、儀式の際に読まれました。 例えば、「ファラオからオシリス神に捧げし物はオシリスから死者へ捧げられるであろう。供物として捧げられるパン、ビール、雄牛、鶏、アラバスター、 亜麻布、オシリスが生きる上での全ての良い物、汚れなき物」。という文があります。この祭文に含まれる供物の数々は、 全て死者が必要とする物でもあります。このような死者に必要な実物は、死者の世界では手に入らない物であり、死者は時々このように言いました。 「最後に私のためにこの祭文を読んでください。ただ口で呼吸すれば良いのです」。これはつまりこのような物に命を与え、実物にすることは、 ただ口頭で祭文を読めば済む簡単な事であったことを示しています。

葬祭文と死者への供物が描かれたレリーフ

 それゆえに、古代エジプト人は危険な意味を含むヒエログリフを読む時には、生者もしくは死者に何かしらの危害がもたらされないように 特別に用心しました。例えば、第5~6王朝(古王国時代)の間、ファラオの復活を助けるための祭文や呪文がピラミッド内部の壁に書かれました。 これらの呪文は一般的にピラミッド・テキストと呼ばれています。このテキストにはしばしばヘビ、ライオン、 その他の危険な動物たちの象形文字が含まれています。これらの文字を彫るときは、しばしば頭と身体を離して描かれました。 これにより、見た目の文字としては読むことは出来ても、それらの動物は無害になるとされました。また違う例として、 儀式的な目的で破壊する供物も挙げられます。中王国時代、人々は来世での復活の道のりは、様々な危険な動物たちにより困難なものであると信じていました。 そのうちの一つがカバであり、ファイアンス製のカバの小像が供物として埋められました。 しかし儀式において、来世での復活への旅でこのような動物に遭遇しても死者にとって害にならないように、小像の足は壊されました。 また近代のブードゥー教の儀式のように、エジプトの敵の名前を書いた泥人形も作られ、それらを壊すことで呪術的に相手を殺すという例もあります。

ファイアンス製のカバの像
 ヒエログリフの絵文字に魔術的な力を含ませる方法は、しばしば裸の子供の姿で口を開けたワニの上に立ち、 両手にサソリやヘビなどの動物を掴んだホルス神の像が描かれた、伝統的なシッパスと呼ばれる魔術的石板にみることが出来ます。 これらの魔術石板は、サソリやヘビの毒から所有者を守る力があると信じられていました。所有者はこの石板に水やビールなどをかけていた可能性があります。 このときに液体に文字の宿る魔力が宿り、所有者はその液体を飲みました。これにより所有者は危険な毒から守られると信じられました。 緊急時には直接患部に石板を押しつけて呪文の力を直接肉体に取り入れることで、傷の治療や解毒を行ったと考えられます。


 古代エジプト人は、黒魔術や白魔術などのような区別はしませんでした。魔術は、結果がなんであれ術者の願望を叶えるための手段として 用いられたと考えられます。有名なラムセス3世の暗殺の陰謀において、暗殺者は魔術を使ったからではなく、むしろファラオに対して魔術を 使用したことで恐れられ、非難されました。ファラオの命を脅かすことは、重い罪だったのです。
 これらの他にも多くの魔術に関する例が古代エジプトにありますが、今日はバレンタインデーにちなんでもう一つ例を挙げましょう。 古代エジプトにおけるプトレマイオス朝からローマ時代にかけて愛の魔術が使われていました。 それらは、複雑な呪文と様々な奇妙かつ異国的な素材を混ぜた薬が用いられました。まず術者は夜、最も暗い時間帯に薬をドア近くにおき、 呪文を唱え儀式を執り行います。そして相手が家に入るもしくは出る時に魔術は成功し、相手は術者に対して恋に落ちると信じられました。 このような愛の魔術のなかには、ブードゥー教で使われるような、針を突き刺した人形を用意し、浮気をした愛人に呪術的な力で痛みを与えるものもありました。

シッパスと呼ばれる魔術石板 ローマ期における呪術人形


5 来世観
 古代エジプトと言われたら、誰もが少年王ツタンカーメンの財宝を頭に浮かべるでしょう。彼の墓と数々の埋葬品から、 古代エジプト人たちは死に対する準備に熱心であったと考えられるでしょう。またそれはエジプトに数多く残る墓と 世界中の博物館や個人コレクションにみられる古代エジプトの埋葬品からもみてとれます。
 しかし実際に、彼らは死に対して積極的であったのではなく、生に対して積極であったと言えます。古代エジプト社会における エリート階級の人たちは、同時代の他の強大な文明により、彼ら自身が先進的な社会における特権的階級の一員であることに楽観視していませんでした。 そのために彼らは生前の裕福な生活を永遠に残すことに執着しました。その執着は豪勢な壁画、来世での生活に必要な魔術的、 象徴的埋葬品で満たされた巨大な墓を造ることに向けられました。
 永遠に存在し続けるために、古代エジプト人たちは遺体をミイラにして残す技術を古王国時代以降長い年月をかけて発達させました。 伝統的にミイラ作りは完成までに70日を要し、その間に脳を主に鼻から引きずり出し、内蔵を取り除いた後、カノポスと呼ばれる4つの 壺にそれぞれの内蔵(胃、肺、肝臓、腸)を納めて保存しました。内蔵を抜き取った肉体は、ナトロンと呼ばれる天然の塩の一種を使って乾燥させました。 その後乾燥させた肉体を亜麻布の包帯で巻き、しばしば護符や宝石を包帯の間に挟み、香油や軟膏を塗りました。ミイラは長方形もしくは人形の棺に納められ、 家族や友人たちによって墓に運ばれました。その時に泣き女(葬儀の雰囲気を出すために泣くことを専門にする女性)も同行し、 死者が来世で使う埋葬品も墓に運ばれました。
 墓自体は一般的に西側に位置する共同墓地の中に造られました。それは古代エジプト人は日没が太陽の死であると信じていたからです。 死者は太陽が翌朝の日の出とともに復活するのと同じく、死後の旅を経て、夜明けとともに再生すると信じました。しばしば危険な動物の姿で 表される邪悪な力が、死後の旅の途中で死者たちを襲い、彼らの復活を妨げました。そのために、古代エジプト人は、それらの邪悪な力を退けるために 役立つ様々な道具を用意しました。そのうちの一つが、「日に現れいでるための書」、つまり「死者の書」と呼ばれるパピルスの書簡です。 その呪文や祭文の中には、「否定の告知」と呼ばれる文章が記されています。
 この文章によると、死者は自分の心臓と真実の羽を秤にかけられる死者の裁判を受けなければならないとされています。人の心臓はその人の意識を表していると信じられ、 もし死者が、裁判官であるオシリス神の質問に対して嘘をついた場合、心臓は重さを増し、秤から落ちるとされました。その時心臓は恐ろしい魔物に食べられ、死者は永遠に復活できなくなります。  裁判の過程において、ホルス神が心臓の測量を取り仕切り、トト神が書記として記録を行いました。この裁判は、オシリス神の玉座の前で行われ、秤の右側に恐ろしい魔物が座っていました。
 「否定の告知」は、死者が生前に善人として、道徳的、倫理的な生活を送り、エジプトの社会に貢献できたことを示すことを義務付けたものです。死者は衣食に対して浪費しなかったことを断言しなければならず、さらに孤児に乱暴せず、知識を悪用しなかったことを認めなければなりませんでした。このような否定の告知は、古代エジプト人の正しい社会的振る舞いや下級の人々に対してどのように振る舞うべきかを認めることを示しています。それゆえに、来世での復活のために、人々は宗教活動に余念のない信心深い人である必要はないが、今日でいう「誠実な人」であることがそのための条件であったといえます。  新王国時代の間、いくつかの墓の壁画に「皮肉の歌」と呼ばれる来世での復活に関する全体の内容を問う皮肉的表現が記されました。 「誰かあの世に行って、そこの様子を記して来た者を知らないか?」という出だしから、この皮肉は伝統的な宗教観念にたいする疑問や快楽主義の支持、 どう飲み食いすべきかの人生哲学、そして常に酒を飲み酔っぱらうことの大切さを死が何も生まないことから歌っています。

「皮肉の歌」(ナケトの墓より)
 私は伝統的観念を疑う者は常に存在し、それは古代エジプトの社会においても同様であることは事実であると思います。 しかし、この歌を含め、人間の道徳観や倫理観を尊重する姿勢の源流は、古代エジプトにあると考えられます。 古代エジプトの社会のように理想的な振る舞いの教訓を残す社会は他に見られません。古代エジプトにおける副葬品を見ると、 それらは命の否定ではなく、命を肯定するために作られたものであり、命の肯定とは社会における下級の人たちに対して 積極的に触れ合う道徳観や倫理観を根底においているのです。

6 対外政策
 スコーピオン1世の墓の中から見つかった多くのパレスティナ製土器より、先王朝時代からすでに、エジプトは、 パレスティナとの交易関係があったことがわかります。実際の主要交易ルートは、歴史的に「ホルスの道」、 「ペリシテ人の土地への道」などと呼ばれ、時代を経てもほとんどそれらのルートが変わることはありませんでした。 これらの主要交易路は、北は地中海沿岸へ、西は今日のイラクにあたる内陸の地方都市国家へ、次第に枝分かれするように広がっていきました。
 同様に、エジプトとヌビアにおける交易ネットワークが、アフリカの優れた鉱物資源をエジプトにもたらすために発達しました。 そのうちのいくつかは、西部砂漠を横断する、つまりカルガ・オアシス、ドンゴラ・オアシスと中継し、 ヌビアのトマスに終着するルートである一方、その他は、ナイル河に平行するルートでした。
トンボス(ヌビア)の情景 ヌビア人像(当館蔵)
 このような陸路に加えて、たくさんの交易品を伴う場合は、帆船がよく使われました。海上帆船は、特に紅海周辺における交易に使われ、 コプトスから北のテーベに向かう陸路に加え、ワディ・ハンマーマートからシナイ、プント、アラビア、そしてより遠方の都市からの 交易品が集まった紅海沿岸におけるアジプとの港町ワディ・ガワシスに向かうルートにも使われました。ワディ・ガワシスに対する 近年の考古学的調査によって、そのような帆船や保存状態の良いロープなどの道具が発見されました。
 シリアの北部へ向かう際、しばしば海路のほうが陸路よりも楽であり、エーゲ海の島クレタやその他のギリシア本土への交易の際には帆船が使われました。 この主な海上航路は、メンフィスの港を始点に、ナイル河の7つの支流の一つにして東デルタに位置するエジプトの港に通じるペルシアクを下るルートでした。 地中海を航海するエジプトの帆船は、一般的に「ビブロス帆船」と呼ばれていました。ビブロスとは、現在のレバノンに位置していた地方都市のことです。 当館の所有する碑文には、古王国時代における海外交易に関する、歴史的に非常に重要な内容が記されています。
 先王朝時代からすでに残されている交易に関する記録は、行政官僚たちの存在を示しており、実際に貨幣が使われるようになったのは プトレマイオス朝になってからですが、物々交換を基盤とする為替も成立していました。第1王朝の始まりによってエジプトが統一されたとき、 国際交易はより厳格に監視され、商人たちは国によって雇われました。個人の利益を追求する独立した商人の最も古い記録は、新王国時代に年代付けられます。
 ここで再びエジプトとの主要外交地域について見ていきましょう。まず始めはシリア・パレスティナ地域です。エジプト人たちは、奴隷(一般的に戦争捕虜たち)、 馬と戦車、羊やヤギ、銀や銅、木材やガラス製品などを得ていました。特に最後の2品については重要な意味がありました。木材は主にレバノン杉であり、 これは材木資源の乏しいエジプトにとっては特に貴重でした。この木材は、建築の他に造船、特に年間行事における行進の際に神を乗せるための 神聖な舟を作るために使われました。新王国時代における文学の一つ、「ウェナムンの冒険」には、英雄にしてファラオの僕ウェナムンが、 亜麻布、ロープ、干し魚、そして金銀を木材と交換しようとしたという記述があります。第18王朝初期において、中東で発明されたガラスがエジプトにもたらされ、 独自にガラスを生成するようになりました。当館所有のいくつかの重要な遺物をもとに、科学的なガラスの研究が行われ、その成果は学術論文に掲載されました。
 新王国時代の間、このような交易は、エジプト人主体ではなく、むしろシリア人主体で行われていました。その結果、古代エジプトにおいて「交易」という語句はなく、 それ自体を「シリアの言葉の使用」として表現されていました。
 エジプト人たちは、キプロスより銅や象牙などを輸入していました。
 クレタ島のミノア人やギリシア本土のミケーネ人たちは、豪華な壷に入った油、ワイン、そしてオリーブオイルなどを交易品として扱っていました。 第18王朝の始め、テル・エル・ダバにおける宮殿に、ミノア人芸術家たちが装飾のため訪れました。彼らは、フレスコ画装飾のため宮殿に二回招集されました。 このフレスコ画に使われた漆喰や染料の全てはクレタ原産であり、それらは芸術家たちによってわざわざクレタ島より持ち込まれました。 アメンホテプ3世の名が記されたファイアンス製の飾り板が、ギリシア本土のミケーネ人の墓の中から見つかっています。このような遺物は、 アメンホテプ3世が、ミケーネを訪問した際に、政治的な記念品として贈ったものであると考えられます。また、かつて紛失し、近年再び見つかったパピルスには、 野生のイノシシの牙で作られた飾り板を基にして作られたヘルメットを被ったミケーネの戦士が、アクエンアテンの軍隊で傭兵として奉仕している様子が描かれています。 アクエンアテンの治世に年代付けられる、ギリシアのオリーブオイルを輸入する際に用いた大釘に記された行政的な記録は、アクエンアテンの妻ネフェルティティが、 エーゲ海の王妃であったことを証明しています。
 金、コクタン、牛、ヤギ、羊などの家畜類、猫の毛皮、ダチョウ、そして象牙等を含む、エジプトにもたらされたアフリカの豊かな資源は、 結果的にヌビアとの交易の関心を強めることになりました。
 プントは、古代エジプトにとって最も重要な交易相手であり、第18王朝のハトシェプスト女王がテーベ西部のデル・エル・バハリに建てた葬祭神殿に、 有名な交易遠征の記録が残されています。プントからの主な交易品は、古代エジプトの神殿での儀式の際に身を清めるために必要不可欠だった、 ミルラを始めとするお香でした。プントの実際の位置に関しては、長く議論されてきましたが、ほとんどの学者たちは、プントはアフリカの端、 現在のソマリアにあったのではないかと考えています。香料の原産はプントではありませんでしたが、プントの重要性は、エジプトの商人たちが、 より遠方より訪れる商人たちと交易を行う場所であった点にありました。デル・エル・バハリにおけるプントのレリーフは、最も初期の記述であると見る人もいますが、 長い年月を経て著しく風化しています。それによると、プントの住民たちの家は、支柱がなく、それはむしろ家の脇に寝転がる家畜の囲いを支えるための柱として見なされていたと考えられます。
デル・エル・バハリ プントの家
 同様に、プントの女王に対する身体的特徴の強調は文学的ではなく、ハトシェプスト女王に対抗するために象徴的に描かれています。 彼女は、ハトシェプスト女王に対する異国的な存在として表現されています。
 古代エジプト人によって発展された2つの技術を除いて、エジプトとギリシア間の商業的相互関係の描写はありません。
 そのうちの一つは、ロストワックス鋳造を用いた中空青銅製造技術です。もともとこの技術は、古くから中東で用いられていましたが、 第3中間期におけるエジプトにおいて大成され、金属職人たちは、金、銀、琥珀の象嵌を施した素晴らしい青銅製の像を数多く作り上げました。 現在のトルコ近海、ギリシアのサモス島における発掘調査により、この技術は、第25王朝においてヌビアの王がエジプトを支配していた際に、 エジプトからギリシアにもたらされたことが証明されました。
 もう一つの技術は、櫛の先端のような鋭い刃による彫刻技術(クロウ・チェセル)です。

クロウ・チェセル技法(ブロックリン博物館)
 この技術は、第26王朝のサイス期(紀元前664?525年)の間にエジプト人によって発展しました。 当時ギリシアでは、コウロスと呼ばれる、左足を一歩踏み出し、両手を腰の位置におろした典型的な男性像描写を発展させました。 この男性像の描写は、エジプトの男性像の描写と非常に良く似ています。このようなギリシアのコウロスは、大理石より作られ、 さらにクロウ・チェセル技法は、ギリシアにおいて固い鉱物への彫刻をより効果的に施すことが可能にさせました。
 リアッシの青銅像やかつてパルテノン神殿を飾っていたエルギンの大理石彫刻群など、後の時代におけるギリシアやローマの芸術家たちに よって造られた素晴らしい青銅像は、もともとは古代エジプトで発展させられた技術が応用されたのかもしれません。
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